30を超え、肉体という器は徐々に朽ちゆく兆しを見せ始め、夢という名の抽象的観念にさえ境界や終焉が垣間見え始める頃、人生とはすでに緩慢な下降の道程を辿りつつあるという自覚に目覚める。酒を飲むという行為は、その下降する道のりにあえて重しを結びつけるがごとく、自らの老化を不可逆的に促進させるものであるが、そもそも酒を断ったところで、人生は本質的に下降する。その運命的事実を悟った瞬間、酒を飲まぬことはたしかに僅かな軽さをもたらすが、それでもなお追いつけぬ境地というものが存在することを、明瞭に感じ取る。あの人や彼の方という、尊敬すべき先行者たちの境地にはどう足掻いても到達し得ないと知りながら、それでも、日々絶望を編むようにせっせと創作を続ける。週に五日間も労働に魂を明け渡せば、人間性はたちまち消耗し、ただ目覚め、眠り、気づけば生そのものが滑り落ちてゆくという虚しさから逃れるため、労働という呪縛から自らを切り離すように努める。それでもやはり時間は不足していて、20代から30代半ばまでを酒の陶酔に明け暮れ、酔いにまかせて見えぬふりをした人生のつけが、今になって容赦なく回ってきていると実感する。しかし奇妙にも、いま僕は気分がいい。それは、肉体と精神をヨガとランという儀式によって浄化し、酒の代わりにCBDを摂取し、瞑想という静寂の中で狂気と正気の境界線上を漂っているからである。孤独という真理の中に生きながら、自分だけのサード、フォース、フィフスプレイスを創出し、自我の安定を図っているにもかかわらず、それでも時折、退屈で無意味な労働の間には自分という存在を殺して時間をやり過ごさねばならない。いったいこの人生という不可解な営みの意味は何なのかと、答えのない問いを突きつけられ、飲まない狂気、すなわちシラフの狂気に押し潰されそうにもなる。それほどまでにこの世界は病的なまでに狂っていて、環境はただ無慈悲に破壊され、他国の欲望に踊らされ、衰退と衰弱、老いゆく国家の末路をただ眺めるしかない状況にある。まぎれもなくその退廃の渦中にいるが、同時にモノを持たず、どこにいても働けるミニマルな生命の場を築き上げつつある。マルタ島に三ヶ月ほど逃避し英語の響きに浸ることにも憧れるが、それでも日本食という原初的安心感、玄米と味噌汁と納豆という永遠回帰的食卓を今日も求めている。さて、何を書こうとしていたのか。そうだ、僕はいま、紛れもなくシラフである。
